このエピソードは『玉庭城山之縁起』という酒町の本間玖右衛門という武士が幕末にまとめた冊子に残されていた玉庭の歴史です。その原本は現在、所在不明ですが、今から160年も前に御伊勢町瑞光寺の藤田谷蔵が、文久三年(1863)にそれを借用して書き写したものが残っています。
この古文書(こもんじょ)には約29個のエピソードが記されており、「玉庭古文書の会」が週に一度集まり解読を進めております。不定期にはなりますが現代訳したお話をご紹介したいと思います。
※古文書好きが集まり、知恵を出し合い昔の文化や歴史を楽しみながら解読した物になります。 正誤あるかもしれませんが、読み物として見て頂けると幸いです。
【エピソード1】酒町の京ヶ森
『玉庭城山之縁起』原本
『玉庭城山之縁起』現代訳
ここに城山の古い跡がっているので、この始まりを古老に尋ねると、「昔、承和二年に泉沢越後守源頼忠という武将が、五万七千石を領地として支配して、その時にこの城山を築いたのです。
兜を伏せたようなので、甲ヶ城(かぶとがじょう)と名付けました。この城山は、三重に堀をめぐらし、中段には馬場がありました。その下には、「壁艱泉」という古い井戸があり、この泉の水はたとえ旱が百日続いても、決して涸れなかったということです。お城を厳重に守り、何事かが起ったときには、すぐに情報を伝える役目を負っていたそうです。」と答えました。
時をおいて天正年間、ここに越後国村上笹平から二百五十人の武士が移り住むことになりました。玉庭という所は幅が一里、行程が三里ほどの場所ですが、その所々に監視のための兵士として置かれることになったのです。その後村上にあった羽黒神社をこの京ヶ森に移し、毎年六月朔日に酒町の六十軒で祭礼を行っているのです。
参考写真
特殊な撮影による城跡地